肝心帳 kudo studio
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盲目の恋人
 春の日差しが部屋を照らす病院・・・・

盲目の若い女性には、たった一人だけ心をゆるしている
彼氏がいました。
午後になるとその優しい彼はまいにち彼女のもとへ
会いに来ていました。

彼女は彼が来るのを毎日楽しみにしていました。
彼女はいつも自分の目が見えないことを不幸だとなげいていたのです。
人に会うのも話すこともいやで、いつも自分のことが大嫌いでした。

彼女は彼に、

「 あなたは眼が見えているからお花でも空でも海でも、 
  その素晴らしい美しさが見えるからうらやましいわ、
  私は優しいあなたの顔が見えないことが、どれだけ
  哀しいことか誰にもわからないわ・・・ 」

と、彼女はいつも悲しんでばかりいました。

優しい彼は、

「 君の眼はかならず治って見えるようになるよ!
  もし見えるようになったら僕と結婚しておくれ 」

と、いつも励ましていました。

彼女その言葉を聞くたびに、その時だけ希望と夢と幸せを
感じていました。

彼女は、

「 もし見えるようになったら真っ先にあなたの顔を
  心ゆくまで見て、くちづけを一杯するわ、
  そしてプロポーズの言葉を話すあなたの口元を
  じっと見ていたい・・・そして私はあなたの申し出を
  笑顔でうけるわ・・・
  でも、神様はそんな奇跡を私にあたえてくれるかしら・・・? 」

と、彼女はまた同じように悲嘆にくれて涙を流していました。 

ある日病院の先生が、

「 君の眼は治ることになったよ、君のために眼を
  提供してくれた人がいて、明日には手術ができるから、
  もう少しのしんぼうだからね! 」

という素晴らしい知らせでした。

彼女は、

「 なんて素晴らしい奇跡を神様はあたえてくれたのでしょう! 
  もう少しであなたの顔を見ることができるのね!  
  あぁ、ほんとうに待ちどうしいわ!」 

と本当に幸せそうに彼に報告するのでした。
そして夢にまで見た手術も無事におわり、
包帯をはずす日が来ました。



彼女はゆっくりと眼をあけて、まぶしい光の中に、庭に咲いている
美しい花や小鳥、そして青い空と白い雲をみながら・・・

「 なんて素晴らしいことでしょう!世界がこんなに美しいなんて、
  なにも見えない暗やみの中とは大違いだわ!」

と、先生や看護婦さんに話しかけて、思い出したように、

「 私の優しい彼はどこにいるの? 愛しいあの人の顔が見たいの!」

先生は彼を部屋に呼び入れました・・・。

彼女はドキドキしながら、入ってきた大好きな
やさしい彼を見つめました。

彼女は自分の大好きで愛している彼をみて・・・
さーっと顔が曇りました。

彼女の愛したやさしい彼の眼は、
かたく閉ざされた盲目でした。

彼女はガッカリしたような声で、

「 あなたが私の愛したひとなの ? 」

彼は、

「 そうだよ、眼が見えるようになって本当に良かったね! 
  僕はこの時をずっと待っていたんだ、僕と結婚してくれるね? 」

彼女は哀しそうな声で、

「 私、もう盲目は嫌なの、ごめんなさい・・・結婚はできないわ 」

彼の見えない眼から涙があふれ、頬にはいく筋もの涙が
流れ落ちていました。

そしてがっくりと肩を落として彼女の部屋から立ち去って行きました。

それから何年もの月日が過ぎて、彼女のもとへ一通の手紙が
届きました。
それはあの優しかった盲目の彼からでした。

彼女は手紙を読み始めました・・・そして彼女の眼は涙であふれ、
身体をふるわせながら大声で泣き続けました。 

その手紙には、

「 僕の愛した君は眼が見える様になってとても幸せになっていると
  思う・・・・僕はいま何も見えないけど、僕の眼は君の幸せと
  共に世界をいつでも見ている・・・僕の眼にやさしくして、
  そしてずっと大切にしてあげて下さい・・・。」

と書いてあったのです・・・
彼は愛する彼女のために、自分の両眼を捧げたのでした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


このお話は、もうすでに会えなくなった人たちや、

忘れてしまった人たちも、皆、人生の中で縁のあった人達、

そういう自分を支えてくれたり、助けてくれたり、友人で

あってくれた事を感謝して、忘れないようにしましょうね。



Kudo Studio Japan:Webサイト
http://www.kudomuramasa.com/index.html
| Muramasa Kudo | 22:12 | comments(0) | - | pookmark |
翻弄(ほんろう)されない心、 (再=復習)
 翻弄(ほんろう)されない・・・シッカリとした自分であるために。


柳は緑、花は紅い、(そのまま自然に)・・・・
その時々の季節や時節に従うのが自然の流れです。

冬来たりならば春遠からじ、 冬長ければ秋の収穫偉大なり・・・

冬がきたら次は春が来るし、冬が長いと雪や雨も多いから秋の収穫は
ふつう以上になる・・

自然の流れは人間だけでなく森羅万象(大自然のすべて)の
ありとあらゆるものに有ります。

仕事でも人間関係にしても、すべては自然の中の一部の
できごとだという事を人は忘れてしまうのです。

人間だけが万物の霊長(最高の生き物)などと勝手に
ほざいていますが、それは人間のおごり高ぶりであり、
人間も哺乳類動物だという事を忘れているのです。

そして、その人間こそ地球史上で最悪の破壊的動物であるのです。

物を作ることも出来ますが、作っては破壊し、作っては破壊、
こりずに人類の歴史が始まって以来、延々と今もくり返すおろかさ。

地震や台風など、自然がチョッと怒っただけで、
人間の普段の意気込みも科学もなにも通用しません。


愛という字は心を受け入れるという字で作られています。

愛はぶつけるでもなく、押し付けるのでもなく淡々と
深い想いによって、自分の日々の姿勢の中に表れる。

多くの人が希望や願望を持っているのに、なぜこの願いが
届かないのか? と悩んでいます。

人間は何かを考えたり欲求したりしても、自分が何故そう思ったのか、
という角度から自分の自分自身の内面を見つめる事はまれなのです。

世界には思ったとおりに生きている人達も大勢いて、その人たちは
色々な事柄に対してそのままを観る(見るよりも観察に近い)柔軟な
姿勢をもっている人たちです。

人間は野生動物と違い、年に一、二度の発情期だけの求愛ではないし、
また動物には人間と違い

時間という観念も幸せとか不幸だとか、そして計画性や想像力などもない。

地球上の命は必ずいっしょになる相手に出逢う自然のながれの中で
生かされています。

朝は朝、夜は夜、自然を思い通りに変える事はできないが、想像の中で
はだれでも出来ます。

人の想いはレーザー光線のように真っ直ぐ飛んでいきます。

ありとあらゆる想いは想念、祈りとなって対象へと届きます。

しかしその想念の波動には発信する人の思惑もはいっています。

強い想いで高められた思念、想念(どっちも波動)は善悪に
かかわらず、いずれ現実化されます。

あなたは自分のことをどう思っていますか? 自分という概念から
離れて、他人が観るように自分を観たことありますか?

たいがいは知らぬ間に自分というものに対して低い見積もりを
する様に養育、教育されてきました。

それは自分を低いところへ置くことによって不要な対立を防ぐという、
人間の考えた社会生活のための知恵だったのです。

基本的にそうする事が良いことであると、知らないうちに
植えつけられた観念です。

それでいながらその社会の中で、いつも他人と自分を比較しながら
文句ばかり、五体満足な人間が一番不平不満をもっているのです。

大事なことは、探し求めるよりも感性と観取(感じ取る)の姿勢を
しっかり持っているかです。

今までも、あちこちで神様は不公平だとよく聞きました。

私にとっての神は一般的な愚像や宗教ではありません。

しかしながら大自然に立ち向かう
力のないあらゆる生命には、自然の力こそ神と同じなのです。

宗教は基本的には人間の弱さを救う手立てでもありますが、
宗教は必ず団体と化します。

そして今も続く宗教戦争といった宗派間の争いは、逆に多くの
人命を奪うことにもなっているのは本当に皮肉な事です。

宗教心も大切ですが、とても大事なのは信仰心を持つ事なのです。

信仰心は自分が現実に生かされている事への感謝の思いです。

そして人間がどうにも出来ない大自然に起きる事に対して
恐れと敬意、感謝をわすれない様にする事なのです。

神が大自然、大宇宙の偉大な力だとすれば、どうして無神論、
不神論でいられるだろう・・?

一つの例として言える事だが、芸術という不必要(衣食住外)の
必要性(魂と感性への栄養)こそ偉大な宇宙の真理です。

光りと影の相対性、人間がいつもいだき悩み苦しむ【矛盾】と
いうものへの疑問に答えるために芸術は生まれたものなのでは・・
と思うのです。

多くの人は ”愛を受け止めてくれる人がいない” となげく・・

熱き想い、愛はぶつけるものではなく、その想いを自分自身で
シッカリと大切にし、そして認め、自分の愛の普遍性に
感謝をするのです。

その愛の波動は津波のように大きなうねりとなって波及し、自他共に
その愛という調和のなかにいる事を知らしめられるのです。

私は 《Life is art》 「人生はすべてが芸術」という事実に
たどりつきました。

そしてその考えた言葉を私の生きるモットーとしたのです。

悲しい時も苦しい時も嬉しい時も、人間という創造力を与えられた
精神、魂、心そのものが、想像し考え、試行錯誤しながら
つくり上げて行く・・・生命力を表現する者なのです。

その力を与えられた人間の魂に、想いを通す(かなえる)力が
内在しない訳がない。


あなたは自分に言い聞かせている言葉や考え、想像力のもつ
素晴らしさやこわさを知った上で、それをやっていますか?

自分の中の深いところで、自分自身をシッカリ愛せる人間でなくて、
どうして人を愛し、そして人の愛を受けとめられるのでしょう?

自我という我(が)をすてさった時、本当に素晴らしい真我という、
何にも誰にも犯されず、翻弄されず、自由自在に思ったとおりの
現実を起こす力を備えた、自分の人生を創造する者となるのです。

芸術に限らず、自分の目的や理想を目指す者は、喜怒哀楽、
辛苦という山あり谷ありの道だと覚悟しなければいけない。

その困難や辛苦は高い次元をめざす魂、精神を磨き輝かし、
理想の想いを実現させることになるのです。

愛は形のないものであり千変万化、ありとあらゆる形、状態、情況で
目の前に現れます。

その魂や愛を見抜く力、引き寄せる力は自分の奥深くにあって、
大体においていつも寝ているようです(起さなくてはいけない)。


真我というものは、安らぎながらも大事なチャンスを
自然に受け入れられるうつわでもあるのです。

いまの私たちには何を心配する事があるのだろう・・・・・?
それは我欲を満たせるかどうか・・なのでは?

先進諸国の現代人が贅沢する事や愛のしがらみで悩んでいる間に、
世界中で食料や教材も買えず飢えと悲しみ、苦しみのうちに命の灯が
消えていってる多くの人達がいる事を忘れてはいないだろうか?

愛は世界を救う・・・その通りです、しかし自分も愛せない
多くの人が同じ事を大声でいつも叫んでいます・・・

その声はどのくらい本当に魂へと届くのか疑問ですが・・・?

自分が真剣に聖戦(自己との戦い)の真っただ中におどり出て、
徹底して闘うその姿は、辛苦、悲哀、偽愛など、多くの俗悪な
うわさや言葉などに、翻弄(ほんろう)させる隙(すき・油断)など
少しもない。

自分と闘い続ける聖戦の中にこそ、その価値観を共有できる人との
あいだに愛は存在するのです。

そのまま観てそのままを受け入れる、それは対立や中傷誹謗もない
あるがままだけです。

善し悪しも、そのままに観て看取する事で多くの気づきや学ぶ事を
知ってゆくのです。

と信じて、私自身も聖戦の真っ最中です・・・


萬謝を込めて・・合掌
| Muramasa Kudo | 21:02 | comments(0) | - | pookmark |
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