肝心帳 kudo studio
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過去と他人は変えられない、自分と未来は変えられる!
 現代社会での人間関係は往々にして問題が起きやすい。
人はそれぞれの思惑や想像、そして個々の生活状況、状態に応じて
考えや行動が伴っていくという事実で成り立っていて、個人の
希望や願望がそのまま100%相手に反映するという事ではない。
ただお互いの理解や協調によって調和(同調と違う)が生まれる。
あくまでも違うという事が自然であり、個々がそれぞれの特性や
個性が活かされる訳です。

何でもそうだが「思い込んだら命がけ」になってしまわぬ冷静さも
大事なことでもある・・・もちろん恋愛感情は一番制御しにくい
感情の最たるものだから、素晴らしさと落胆の狭間に揺れる訳です。
コップを空にして、どうぞ・・・と入って来るものが柔軟なものではなく
氷のように固まっている場合、コップと接している部分はほんの
僅かです、水や空気のように柔軟であれば問題は無いのですが、
人間大人になるまでに多くの経験や情報による概念や思い込み
というものに囚われている事の方が多いものです。

どんなに頑張っても他の人にはなれない、男女の性を反転させる
ことなども出来ないのだから、後は自分の思考や想像力をいかに
調和へと使うかだが・・・・それがなかなか出来ない。
だからこそ自分という者の善し悪しを、いかに把握してそれに
集中し矯正したり伸ばしたりしていけるかの自己内面の勉強であり、
猛烈な自己との葛藤、格闘のくり返しを続けるわけです。

みな血の通った人間である以上、それぞれが自分の思いや希望を
描き抱いているからこそ未来へ進めるし、延々と立ち止まり、さまよう
こともある訳です。

自分というものは個人という世界に現存する何十億分の一の確立で
生かされ存在している、そして他という命の存在もまた蟻一匹でさえ
個という独立したそれぞれが違うという別個の命であることを忘れては
ならないのです。

個という単体の集合体で世界は成り立ち、また、それぞれの種類、種族
に集合し、国、社会、そして家族などが構成されている訳ですが、一番に
忘れてはならない事は、それぞれの違いがある事によって自己という
個、個人の存在が確立されているという事であり、違いがない同一と
いうものは存在せず、似て非なるものという事実を受け入れることが
大事です。そしてそれが生きて行く上でとても重要な関わりという関係を
産み、人生という壮大なドラマが構成されていく事になるのです。

人のせいなど何もない、他人が他人への決断をする事はないのです。
例外はあるが、それは法律で拘束されたりした場合にはあるでしょう。
しかし物事の総ては自分の最終的な決断、判断で決めているのが
事実であり、毎日の生活は自己決断を続けている事による因果関係で
成り立っているという事を常に念頭において置く事です。

面倒臭いこと言うかも知れないけれど、他人と過去は変えられない、
でも自分と未来を変えることは誰にでも出来る、もし望むのであれば。

一秒の積み重ねが時間という人生の経過をつくる以上、その一秒を
大切にできる様になりたいものです。
| Muramasa Kudo | 18:10 | comments(0) | - | pookmark |
未来は自分で創る

他人と過去は変える事はできない、しかし自分と未来を変える事は出来る!
自分の根底(潜在的に持っている意識)を見つめる勉強、それは内観という
結構しんどい勉強でもありますが、自分の我、自分という変幻自在の化け物と
対峙し、決して自分からは逃避できないという事をシッカリと認識し、そして
自我という制御しづらい五情五欲を統制できる様になるまで続け、そして尚かつ
忘れぬように常に自己内面への注意を払い続ける事です。
内面の自己闘争、これを私は聖戦と呼んでいます。

あとは日々自分というものを第三者の目で観る訓練をすることです。

『観る』という事と『見る』という二つの言葉の意味は天地の差があります。
観るという事は観世音、すなわち見えないもの(感性)を観るという事です。

皆が知っていることわざで、見ざる言わざる聞かざる・・は本来の意味で
シカトする事や無視するという事ではありません。
目を閉じて自分の本来の姿を思い浮かべ、あるべき姿を確認し、
耳をふさぎ聞こえそうも無い内からの善なる声に耳を傾け、
口を閉じ自分の中の本当の姿(善し悪しを含め)に問いかける、
あくまでも真我という自我から解放された真の自由を持つ力強い
自分へと進化、変化、改革を進めるための内観法なのです。

さて、アマチュアとプロの差は駄目だ飽きたと思った時点でどういう
決断をするかで決まっています。
アマチュアの行動は趣味という枠の中で絵でも何でもやるが、失敗したり
飽きたりしたらすぐ止める捨てる、もしくはもう一度新しい紙なりキャンバス
なりの材料を使うが、プロは失敗した時点、飽きた時点からその失敗、飽きを 
いかに克服し完成させるかを考え行動する。

どんなに大変でも挑戦し続けている以上は失敗しても何でも挫折とは言わない。
挫折は諦めてギブアップした時、降参した時点でその呼称となる。
継続こそ才能という花を咲かせる唯一の栄養素であり、それが結果(実をつける)
となる事をプロはよ〜く知っているのです。

こだわらず、かたよらず、かたまらず、とどまらず、ながされず、そして
あきらめず・・・自分の進む道は自分の前にしかない、成功も失敗も将来には無い!
全ては経験という過去形の結果をあらわす呼称なのです。

自分の歩いて来た足跡を自己の道と呼び、成功や失敗と呼ぶ。
そして人はその足跡をみて誉めたりけなしたりするが、それは自分の事では
ないからできる事で、いざ自分の事となると大いに反発したり発奮する事になる。

歩かずして前には進まない、倒れるまでは立っている、生かされているうちは
死んではいない、だから生かされている内に大切な命を燻ぶらせずにシッカリと
燃やし尽くす覚悟で日々を送り、そして疲れ過ぎない様に飽きないように日々
楽しく、そして力み過ぎず自分を信じて精進する事です。

我ン張らずに、楽しく頑張りましょう。

| Muramasa Kudo | 19:56 | comments(0) | - | pookmark |
自他利という、お互いの力こそ

 自他利という言葉がある、お互いが良くなる為の行動や言動を基本として生きるという事です。

 自分は犠牲になっても人の為だからという(自己顕示です)小さな親切、大きな迷惑・・。

 自分が泳げないのに、どうして溺れている人を助ける事ができるだろう・・・?

 自分が助けてあげなければ・・・自分の事をちゃんと出来てもいないのに、人の為?人べんに為と書いて偽りという字になるのです。

 自分がしてあげないと・・・それは驕りと自己不安です。人目に良い人でいよう・・・なんて努力はよしなさい。自己の確立が成された時、すでに人助けは何時もして来たことがわかります。

 私はいいから、あなただけは・・・なんて子供に言うなら解るが・・自己確認が出来るとしに成ったら、お互いが良くならなければ、助けられるだけの相手にとっては、一生あなたに借りをつくり、常にあなたを意識して、会うたびに礼を尽くさねばならず、その人はしまいに疲れてしまうでしょう。

 これは自我のヒロイズム以外のなにものでもない。どんな事があっても善欲、大欲の見地から、エエ格好の我を捨て、一所懸命の自分をシッカリ通す事が相手に力を与えてあげる事です。

 人に良い人だと思われる為の努力などはしない方が善い。良い人だからと言ってくれるから、かといって、相手のチャレンジできる可能性の芽を摘んではいけない。

 問題とか困った時にこそ天はその人の本来の力を試すのです。それが天の導きであり、人生の道を歩けるようになるのです。天はその人に解決できない問題など絶対に与えない。

 挑戦しようとする者を安易に助ける事はその人の将来まで見る積りで助けていかなければただの偽善です。

 和不同・・・和して同ぜず

 神が与えた個々の命と魂の尊厳を侵さず、違うという事を受容し、命に関わること以外はその人の力を信じてあげる事です。個々の違いを受け入れて尚、調和がとれていく・・・それがとても大事なことです。

 困っていると人に言われても、自分を差し置いて助けることは、自分の命と魂の尊厳に対しての冒涜です。自己確立が最優先です。そのジレンマと闘う勇気が必要なのです。

 自分以外に自分の存在はないのだから・・・

JUGEMテーマ:学問・学校


| Muramasa Kudo | 16:36 | comments(0) | - | pookmark |
どれも自分だから・・・ねっ!
不動明王

自分の事はよく自分が一番わかっている・・

多くの人はそのように言いますが、本当になかなか解らないのが自分です。

自分という者はお化けの様なもので、その正体、実体というものがまるで無いのです。

お酒を呑んで酔ってたから・・・チョッと感情的で自分らしくなかった・・普段はもっと違うんだけど・・・

どれも自分なのです。自分でない自分など は何も無いのです。どれも自分でどれもその自分にシッカリとした自信も覚醒も確立もないのです。

自分の都合によっていいように変わる・・多重面相まさに怪人かお化けでなくて何でしょう?・・ね!

私もつねに気をつけていますが、神仏でない以上、そして人間である以上は気が抜けている時などにはアッという間に魔がさして(入り込んでくる)しまう・・・のです。

どれも自分なのだから、どの様な自分であっても必ず自己責任をとる覚悟でいなければいけません。

私は多くの失敗をなんどもくり返して来た愚か者でもあり、その分、人の痛みも苦しみも喜びも理解し、自分へのいましめ、そして励みへと転化するようにしています。

自分・・・本当になかなか言うことを聞かぬやっかい者です。

そんな自分でも、やはりたった一人の自分だから、大事にのこされた命の分を建設的に生きて行きたいと思うのです。


JUGEMテーマ:アート・デザイン


| Muramasa Kudo | 14:53 | comments(0) | - | pookmark |
自己を高める・・品性
 生まれた時には皆同じく愛情と期待に包まれてこの世にデビューします。しかし育った環境と経験がその後の個々の品性を育てて行きます。善し悪しに関係なく、大人になって自分はこうだと決め付けていませんか?

 それぞれ人の目指す目標や理想の高さで努力も行動も違ってきます。品性は生きて来たその時その歳までに磨き上げられ身になっていくものです。

いつも自分自身の品性に気をつけていれば、社会での評判は自然とよくなります。生きている中で、大切な人に誤解を受けてしまった経験が一度や二度はあるはずです。知らぬ内に自分の行動が誰かを傷つけ、しかもそれが意図的なものであったと誤解されてしまうのです。でも、そうした誤解はすぐにとけて元の人間関係が復活します。

品性や評判についても同じことが言えます。何らかの理由であなたの品性と一致しない評判をたてられたとしても、周りの人は、あなたが実は自分たちの思っていたような人間ではないことに気づき、誤解はおのずから解けるはずです。

 自分自身の基盤がしっかりしていれば、そのような誤解をいちいち気にする必要もないのです。他の人たちは、あなたの本当の人格と品性に対してちゃんと理解してくれることでしょう。

 自分を振り返ること、自己改善の努力をすること、そしてしっかりした品性を身につけることに時間とエネルギーを使いましょう。そうすれば、自分が人からどう思われているかなどといったことを気にする必要はなくなります。

感謝、合掌

愚、村正
| Muramasa Kudo | 10:56 | comments(0) | - | pookmark |
自己の確立とは
 私が書いた言葉に対して送って来た質問に答えたもので、自分はとても不運な人生と思っている方への言葉です。

 身心脱落、自己放下という言葉があります・・・
 自分『自我』に執着しないと云うことでもあります。

 人と自分を比べる・・・無理なことです・・・
 なぜならば、もともと違うものは比較しようがないはず・・

 同じに見えるどんぐり、りんご、ジャガイモ・・
 すべて違うのです・・・・『個』という厳然たる違い・・

 もう一人のAさんが存在するのであれば比較してどこが違うか観ることも出来るが、それでも『個』という存在は比較して、そこに違いがあるのを見つけても当然です!

 あなたが何を基準に劣っていると言えるのだろう・・?

 桃栗三年柿八年・・・三年で実のなる桃栗は柿よりも優れていて、柿は桃栗より劣っていると思いますか・・?

 それぞれの時節、そしてそれぞれの持ち味があります・・
 皆同じであれば善いと思えますか・・・?

 あなたが他の人と同じ、どこもかしこも同じ・・であれば
 あなたの子供はどうしてあなたを愛せるだろう・・

 同じに見えるペンギンの群れ・・・自分の子供、親・・
 間違いなく見つけ認識するのです・・・なぜ?

 そこには『個』という絶対的な存在があるからです。

 今あなたが感じているあなた・・・それがあなたです・・
 それ以上でも以下でもありません・・・それはあなたが決定し決断しているのです・・あなたの総指揮下にある映画なのですから・・・あなたがどう演じてもあなたです。  

 あなたが独楽(こま)の芯だとすれば・・・
 芯だけでは立てないのです・・よもや回転する(命)など出来るはずも可能であることはないのです・・

 不必要の必要性・・・これは独楽の芯の周囲にぴたりとついている円盤です。円盤自体はあなた(芯)ではないが、その自分以外のものが芯という自分を立たせてくれる・・

 自分という芯が、周りと協調せず、調和を欠いた勝手なスピードで回転(いきる)しようとしたら・・・? 芯と円盤の間に不自然な力がかかり、密着性はすくなくなりずれたり、滑り落ちたりするのでは?・・自然の法則です・・

 芯だけで独楽は回転(生きる)出来ません・・そうですね?

 ゆっくりと徐々に速度を上げることが大事です・・ね?

 シンデレラ・・一夜にして・・は長持ちしないのです・・

 シンデレラにも辛い時期がなが〜いあいだ続いたのです。
 彼女は人を恨み親を恨み・・・ませんでした・・ね?

 自分が幸せになるためには、同時に周りと一緒に進んでその目的へと行動を起こさねばいけません・・家族、会社、友人、社交・・一人の暴走は調和からは無視されます・・・自分の中での暴走は?・・自分の可能性や慈愛、自愛からも無視されかねないのです。

 聖戦と云う言葉は・・・外敵ではない、内敵との戦いです。
 感情と云う内敵との激戦場なのです・・白旗を振りますか?白旗は戦いを放棄すること・・・自己放棄しますか?

 幸せになりうる自分を放棄することは自滅の道だけです。

 自己放棄(逃避)と自己放下(決断)は天地の違いがあります・・・・

 真剣と深刻は違う、謙虚と自己卑下は違う・・・・

 親しさとなれなれしさは違う、優しさと甘やかしは違う・・

 良書、良友・・・周りに目を向けるのならそこに目を向ける

 完璧なひと・・それは人間として不完全な者と同じなのです

 完璧などどこにもない・・・

 しかし完璧をめざすという信念は大事です・・・

 その姿勢が自分を真摯に見つめ、周りに慈愛の目を向ける・・


 私は解りやすく自分の感覚を書きました・・昔から感じていたものであったとしても、確信できるということとは違うのです。

 習い事をする時には・・まず白紙の状態にならねば駄目です。
 前後をごちゃ混ぜにして習うということは出来ないはずです。

 清らかな水を飲もうとしたグラスにミルクがまだ入っていたらいくら綺麗な水をいれても入れても濁ります・・中をすっきり洗い落として(我にとらわれない決断)から綺麗な水を入れます・・ 洗っても透明なグラス(自己)は無くなりません・・

 そうして入れるものはハッキリ解り、シッカリ味わえる・・

 一番複雑で素晴らしい味・・・人間味がわかるときが来る・・

 聖戦に参戦したら逃げ腰になってはいけません・・
 その逃げ腰の気の緩みに・・魔がさすのです・・UP・DOWN・・

 あなたの健闘を祈ってやみません・・


 祈念をこめて・・・邪気厄除、精神萬福・・合掌!!
| Muramasa Kudo | 15:43 | comments(0) | - | pookmark |
嘘偽の力などに、翻弄されない自分
 翻弄されない心とは、何であれ、あるがままに観取したものを、そのままが本当の姿だと見れる事です。 柳は緑、花は紅い、・・・・時節に従うのが自然の流れです。

 冬来たりならば春遠からじ、 冬長ければ秋の収穫偉大なり・・・です。

 自然の流れは人間だけでなく森羅万象ありとあらゆるものに有ります。

 仕事でも人間関係にしても、自然の中の一部であるという事を人は忘れてしまうのです。

 人間だけが万物の霊長などと勝手にほざいていますが、それは人間のおごり高ぶりで哺乳類動物だという事を忘れているのです。

 そしてその人間こそ地球史上で最悪の破壊的動物であるのです。

 物を作ることも出来ますが、作っては破壊し、作っては破壊、こりずに人類文明の歴史が始まって以来、延々と今もくり返す愚かさ。

 自然がチョッと怒っただけで、人間の普段の意気込みも科学もなにも通用しません。

 愛という字は心を受け入れるという字で構築されています。

 愛はぶつけるでもなく、押し付けるのでもなく淡々と深き想いにて日々の姿勢の中に表れる。

 多くの人が希望や願望を持っているのに、なぜこの願いが届かないのか? と悩んでいます。

 人間は何かを考えたり欲求したりしても、自分が何故そう思ったのか、という角度から自分の内面を見つめる事はまれなのです。

 世界には思ったとおりに生きている人達も大勢いて、その人たちは色々な事柄に対してそのままを観る柔軟な姿勢で居られる人たちです。

 人間は野生動物と違い、年に一、二度の発情期だけの求愛ではないし、動物には人間と違い時間という観念も幸か不幸かなどの考えもない。

 地球上の命は必ず伴侶に出逢う自然の摂理の中で生かされています。

 朝は朝、夜は夜、自然を思い通りに変える事はできないが、想いの中では出来ます。

 人の想いはレーザー光線のように真っ直ぐ飛んでいきます。

 ありとあらゆる想いは想念、祈りとなって対象へと届きます。

 しかしその想念の波動には発信する人の思惑が混入されています。

 強い想いで高められた思念、想念は善悪にかかわらず実現されます。

 あなたは自分のことをどう思っていますか? 自分という概念から離れて他人が観るように自分を観たことありますか?

 大概は知らぬ間に自分というものに対して低い見積もりをする様に養育、教育されてきました。

 それは自分を低いところへ置くことによって不要な対立を防ぐという、人間の考えた社会生活のための知恵だったのです。

 基本的にそうする事が善いことであると、暗黙のうちに植えつけられた観念です。

 それでいながらその社会の中で、いつも他と自分を比較しながら文句ばかり、五体満足な人間が一番不平不満をもっているのです。

 大事なことは探し求めるよりも、感性と観取の姿勢をしっかり持っているかです。

 神様は不公平だとよく聞きます。私にとっての神は一般的な愚像や宗教ではありません。

 宗教は必ず団体と化します。しかしながら大自然に立ち向かう力のないあらゆる生命には、自然の力こそ神と同義なのです。
 
 宗教は根本的な人間の弱さを救う手立てでもあります。

 宗教心も大切ですが、とても大事なのは信仰心を持つ事なのです。

 信仰心は自分が現実に生かされている事への畏敬の念です。

 そして自然の摂理に従って起こる事に対して恐れと敬意、感謝をわすれずにする事なのです。

 神が大自然、大宇宙の偉大な力だとすれば、どうして無神、不信でいられるだろう・・?

 一つの例として言える事だが、芸術という不必要(衣食住外)の必要性(魂と感性への栄養)こそ偉大な宇宙の真理です。光りと影の相対性、人間がいつもいだき悩み苦しむ矛盾というものへの疑問に答えるために芸術は生まれたものなのです。

 多くの人は”愛を受け止めてくれる人がいない”となげく・・・・

 熱き想い、愛はぶつけるものではなく、その想いを自分自身でシッカリと大切にし、そして認め、自分の愛の普遍性に感謝をするのです。

 その愛の波動は津波のように大きなうねりとなって波及し、自他共にその愛という調和のなかに居る事を知らしめられるのです。

 悲しい時も苦しい時も嬉しい時も、人間という創造力を与えられた命自体がすでに「人生すべてが芸術」という普遍の力の表現師なのです。

 その力を与えられた人間の魂に、想いを通す力が内在しない訳がない。

 自分に言い聞かせている言葉や想いのもつ凄さを知った上でいつも言っていますか?

 自分の中の深いところで、自分自身をシッカリ愛せる人間でなくて、どうして人を愛し、そして人の愛を受けとめられるのでしょう?

 自我という我をすてさった時、本当に素晴らしい真我という、何にも誰にも犯されず、翻弄されず、自由自在に思ったとおりの現実を起こす力を備えた真の創造する制作者となるのです。

 芸術に限らず、自分の目的や理想を目指す者にとっては辛苦という山あり谷ありの道だと心得るべきです。

 その困難や辛苦は高次元をめざす魂、精神を磨き輝かし、理想の想いを実現させずにはいられない。

 愛は普遍であり千変万化、ありとあらゆる形、状態、情況で眼前に現れます。

 その魂や愛を見抜く力、引き寄せる力は自分の奥深くいつも寝ています。

 真我というものは、安らぎながらもそのチャンスを自然に受容するうつわでもあるのです。

 いまの我々に何を心配する事があるのだろう・・・・・?

 先進諸国の現代人が贅沢する事や愛のしがらみで悩んでいる間に、世界中で食料や教材も買えず飢えと悲しみ、苦しみのうちに命の灯が消えていってる多くの人達がいる事を忘れがちではないだろうか?

 愛は世界を救う?自分を愛せない多くの人間が大声でいつも叫んでいます・・・その声はどのくらい本当に魂へと届くのか疑問ですが?

 自分が真剣に聖戦(自己との戦い)の真っただ中におどり出て、徹底して闘うその姿は、辛苦、悲哀、偽愛など、多くの俗悪な言葉などに翻弄させるスキや油断など少しもない。

 闘い続ける聖戦の場にこそその価値観を共有できる者同士と愛は存在するのです。

 そのまま観てそのままを受け入れる、それは対立や中傷誹謗もないあるがままだけです。

 善し悪しも、そのままに観て看取する事で多くの気づきや学ぶ事を知ってゆくのです。

 と信じ、私自身も聖戦の真っ最中です・・・

 萬謝を込めて・・合掌
| Muramasa Kudo | 20:43 | comments(0) | - | pookmark |
想像が起こす現実
 長年にわたって自分の思考とか想像力がどれだけ強力に自分の人生を変えてしまうかという事を身をもって経験して来ました。
 そして私達人間は科学的に開明できるものが正しいものとして信じてきました。しかし人間の科学の歴史などは宇宙や地球の歴史からくらべれば、ほんのまばたきにも満たないものです。それでも人間のおごりは頭脳万能だと信じているのです。

 私は学歴もなにもない裸一貫でアメリカへ渡りました。ほとんどの事は独学で身につけました。英語、漢字、絵画、彫刻、ギター、レース・・・数え切れないほどいつも自分で研究し、探求してやってきました。

 その根底には人にできる事は、私にもできるという信念と、不思議で偉大な力が絶対的に存在し、その力は善悪に関わらず、人が知らぬうちに使っている力だと解ったのです。

 その力をいかに有意義に建設的に前向きに活用できるかということを、真剣に研究しました。

 結果は・・・恐ろしいくらいにてき面に現れました。それは勉強しているとシッカリ何が起きているのかに注意力を傾ける事ではっきりします。

 想像や思い込み、想念、信念、善悪に関係なく現実の世界に現れます。それは思ったこととはちがった形かも知れませんが、必ず実現されているのです。

 そういう風になっている法則をほとんどの人は知らずにいるだけなのです。

 その方法の一例として私がやっていること・・・

 私は徹底して自分との闘い(聖戦)だけが一番最重要なことだと思っています。

 最大の問題の根源は自分自身の内にあるのです。

 誰も自分にはなれない、自分も 誰にもなれるわけでもない、そんな自分と言う確固とした存在がもともと有って、自分の周りに沢山の事象が起きる訳です。

 自分の中の魔物(嫉妬、怒り、比較、恨み、妬み、猜疑心)を徹底して排除していくようにしています。

 消極的、俗的、非建設的なネガティヴな言葉や話し、そして毎日の会話の中でも徹底して使わない、話さない、そして逆に建設的で前向きなポジティヴな言葉や会話をつねに心掛けるように、自分の思考や言動にいつも注意をする様にしています。

 何は無くても殺される訳ではないので、自分の責任や人からの恩義にはずれないように日々頑張るのです。

 不器用でもいい・・上手い生き方よりも善い生き方、上手い仕事よりも善い仕事、上手く付き合うよりも善い付き合い・・善い絵を描くことの原点はそこにあるといつもおもっています。

 何でもかんでも笑いと生かされているだけの価値がある人間なんだと言う自信で、ネガティヴな魔物を根こそぎ吹っ飛ばしていきましょう!!

 皆さんの中にはそれぞれの才能と色々な方面で活躍するための力が誰にでももともと潜在的に有るのです。あなたはそれを信じきれば善いだけなのです。

 一番やばいのは・・心配=願望、という事を認識しなければいけないですね。人の思考や念は力になって現実のものにしていきます。

 偉大な力そのものは人間ではないので、人間の都合などは考えずに、その思考や想像の持ち主の強力な念に反応し必ず現実化するという恐ろしい位の力を持っています。

 みなさんも自分も含めて周りの人にこの法則をシッカリと認識して意識的に全てポジティヴな方向で思考を持つようにくれぐれも話すように心掛けてください。

 私は、この想像力と念力だけで奇跡を起こし、そして外国で今までやって来れたのです。信じ難いかも知れませんが、本当のことなのです。

 人としての感性が有れば遅かれ早かれその効力と効果はあらわれ始めます。しかし諦めず継続してポジティヴな思考と想像を働かせ続けなければいけません。

 とにかく不平は負の力を産みます。そして建設的なプラス思考は正と向上の力を産みます。

 毎日、朝夕の目覚めてすぐと、寝る時の願望のおまじないを一分くらいの詩の様にして、自分がすでに目的を達成したと(これが大事です)何度も眼が覚めるまで、そして眠りにおちるまで、呪文の様に繰り返し思ったり言うようにしてください。

 ぶつぶつでも大きな声でも、思い出したらいつでも唱えるようにするのです。

 笑うかもしれませんが、私はこうして何十年も何も無い所からここまでやってこれたのが証明そのものです。

 感謝、ありがとう、お陰さまで・・すべてマジックワード!相手も自分も楽しくなる話題や、どんな問題でもその背景やいろいろな見地で建設的な考えとしてとらえれば、必ず為になるはずです。

「我」ん張らずに、頑張ろう!!

祈念、無病息災、萬福招来、大願成就、

感謝を込めて・・ありがとう・・・ 合掌。
| Muramasa Kudo | 17:53 | comments(8) | - | pookmark |
自己の目覚めと確立
 生きている日々の事象には思いがけない事が沢山あります。多くの問題から素晴らしい出来事まで、毎日が驚きと感激の時間です。

 私のように人並み以上に多くの事をやって来た人間には、その感激や驚き、ワクワクする様なときめきが希薄に成ってきます。

 私は芸術畑で生かして頂いていますが、未だに納得のゆく作品が一点もできておりません。そういう思いの毎日でアーティストと自称することには真に心苦しく背信的な思いを抱いております。

 私は若いころ、どうにかして成功し皆の鼻をあかしてやろうと息込んでいたものです。

 創作活動をする様になっても、自分のスタイルと云うものを創り上げ、確立しようと模索し続けてきました。

 しかしながらスタイルと云うものは創れるものではなく、日々の研鑽と継続して創作し続ける事によって自ずから発露してくるものだったのです。

 蜃気楼のように内面からにじみ出てくるものであり、それは確固たるものでありながら、たおやかで静かなものなのです。

 そこに自我意識や作為があったり、作者の匂いがあるとクサイものに成ってしまうのです。

 内面の勉強は誰に対してのものでもなく、自己の確立と覚醒、小悟、小悟の積み重ねの結果が大悟へと結びつくのです。

 しかし、悟後の悟りをめざし、更なる研鑽、精進を重ね行く姿勢無き者には悟り地獄、悟り馬鹿という無知よりも悪いただの自己中心的な誹謗、中傷、批判家になってしまうのです。

 多くを勉強しすぎて逆に弊害となる事もなきにしもあらずです。知識を行動に移し見識となし、見識をもって生き続けることで胆識となり、一切にこだわらず流されずの境地の人を達人と呼びます。

 一流、名人と呼ばれる人は多いが、本当の達人と云う人は真に稀有な存在といえます。

 達人は百練自得、自己内観、そして木を観て森が解るまで淡々と、しかし無言の大声で呼びかけ、その静かな波動はあらゆる者の魂を揺さぶり、静眼の奥には宇宙をつら抜く燃えるような光りを静かにたずさえています。

 人は何とかしようと知らないうちに毎日頑張りすぎてしまう、疲れないのが不思議でしょう・・・私もそうであったように。

 他人と過去は変えることは出来ませんが、自分と未来は幾らでも変えていけます。そして自分が変われば世界が変わることを体感するのです。

 外には何もない、すべてこの世の事象は自己の内にしか存在していません。全ての一部であり、その一部の自己は全てなのです。

 葛藤は如何に生きても自己の内に生じます・・・それで善し・・・と受容できる自己、真我という自分にめぐり合える・・自己覚醒のときが来るまで聖戦は続きます。

 いかなる事情があっても、それは他人の介するところではありません。それで善しと決めた事が大事なのです。

 苦しみの無い命のお産はありません。どんな事にも多かれ少なかれ陰陽の衝突があります。その衝突が輝きとなっていくのです。

 自分を創るのではなく、真我の自己が発露されていく事が大切なのです。人の思惑などは海辺の砂のごとく微小なもの、砂の上を歩くたびに惑わされたならば、一切の歩みは 止まってしまい、命はかなく魂の火も風前のともし火と成ります。

 誰も私にはなれないし、私も誰かにはなれない、確固たる65億分の一の存在どうしです・・・ただそれだけなのです。そして65億分の一という希少な存在だということも認知することが大事です・・・そこから無限の感謝が生まれます。

 間違ってもいい、失敗してもいい、上手く生きる事などはどうでもいい、善く生きるということに精進して行って下さい。そこで人は本来の自己と対面できます。

 品格とはその人自身の波動です・・他人の波動に右往左往しない、確固たる教養をもち、そして大らかに、朗らかに笑うことです。

 陰陽は表裏一体です。どちらもなければいけません。いずれかを厭うのではなく、どちらも受容して観取し、前後裁断の想いで進み行くことです。


感謝、合掌
| Muramasa Kudo | 19:48 | comments(1) | - | pookmark |
自損心
 題名を自尊心ではなく自損心としたのには理由があります。

 人はいつでも幸せになりたいと願いながら、人を羨んだり嫉妬したりして、自分の本来から備わっている大事な能力を正しい方向に使うことを忘れてしまう事が多いですね。
 偉大な宇宙の力(神の力でも善いでしょう)から生まれて来た命、その尊い命を頂いているにもかかわらず、自分という人間を必要以上に卑下したり、嫌っている人のなんと多い事か・・・・。
 自分のことは物理的に第三者としてみる事は出来ませんが、精神的な目で自分を第三者としての目で観る事が大事です。
 よく観ると、自分もなかなか捨てたものではないという事が判る筈です。人それぞれが個人の宿命や運命をつかさどって生きています。
 いい人生を送る人は自分というものを大切にする事を知っている人です。上手く生きようとするのではなく、善い生き方をするという事が大切なのです。
 自分以外の人がいて初めて自分というものが存在し、証明されるのです。自他不二という言葉があります。自分と他人も同じ人間で何も変わらないという事のほかに、自分の思考そのもの、自分の中にあるもの意外は判断できない、出来えないという事を知る事です。

 人を非難中傷すること自体が、自分のおろかさを露呈する事になるのです。人の幸運を喜び、そして笑顔でその喜びを一緒に感じる事が出来る人間、それが幸せな人という事です。自分も他人も一緒の人間だという事をシッカリ受け止めて、自分の目指すところへと、反省と感謝を持って努力邁進する事が大事な生き方といえます。
 自他共に優しく出来る人でありたい、そう私は願って生きています。一日という時間のなかに自分を愛する時間も入れて下さいね。
 そして自分を見積もる時に低く過ぎる見積もりは、自分の自信を低下させ、その分ほかばかりに眼がいってしまいます。結局は自分の人生を幸せだとは感じる事が出来ないままに一生を終えてしまう・・そうならない為の・・想像と信念です

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 ナポレオンヒルの言葉からの引用です。


『噂話や悪口ばかりにうつつを抜かしている人間は、それに忙しくて成功できません。』

 私たちに与えられた時間、エネルギーは限られています。その限られた財産をどのように使うかは、自分自身で慎重に決めなければいけません。

 自分の利益ばかりを考え、他人の名誉を傷つけることに時間を使うならば、他人の噂話や悪口をいうことに多くの時間とエネルギーが費やされ、自分のための時間がほとんど残っていないことにすぐ気がつくはずです。

 悪意のある情報に関わっていると、他人から信用されなくなります。こんなことわざがあります。

“ 私たちに他人の噂を話す者は、他人の所で私たちのことも噂しているものだ ”

☆ 自分の命と魂の力を無駄にせず、幸福の想像に使おう!

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| Muramasa Kudo | 11:26 | comments(0) | - | pookmark |
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